2010-07-04

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五月十六日に彼は付添いにいった。
「私は死んだ」
「何をいうんです。ぴんぴんしていらっしゃるじゃありませんか」
「君がそう思うだけなのさ」
彼は何か異常を感じていたのであろう。十八日に彼は倒れた。ベッドに寝かされたときにユゴーはいった。
「君。死ぬのはつらいね」
「でも、死んだりなさるものですか」
「いや死ぬね」
しばらくして、スペイン語でいった。
「だが、死を歓迎するよ」
死の床にある間に、彼は、
「ここで夜と昼とが戦っている」
と、つぶやいた。
二十二日朝から臨終の苦しみがはじまった。彼は、砂利に打ち寄せる海の音のようなあえぎをつづけ、午後一時三十七分に息をひきとった。「黒い光が見える」というのが最後の言葉であった。
ロマン・ロランは「老いた神が断末魔の苦しみに喘いでいたとき、凄まじい嵐がパリを襲い、大旋風が巻き起り、雷が鳴り、雹(ひょう)がふった」と記している。

山田風太郎「人間臨終図巻Ⅲ」(ユゴー)

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