2010-11-01

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時に一種の博愛主義に見あやまられがちのチェーホフの温かさとか、しみじみとした愛情とかいうものは、実は深い知から生まれたものであることを忘れてはならない。彼は何も人間が可愛かったのではない。真実が可愛かったのである。彼は、曾て長篇の枠どりに幻滅したときから既に、純粋に虚無の人ではなかったであろうか。主義の上のことを言うのではない。彼の内なる否応ない生命の営みのことを指すのである。
このような人間にとって、感受とは、表現とは、所詮音楽の形式を離れることが出来ないのではあるまいか。人の世のくさぐさは音楽の波として享受され、その享受は再び音楽の波として放出されるのではあるまいか。事実、チェーホフにあってはそうであった。このような契機から生まれたのが、彼独特の雰囲気の芸術、気分の芸術だったのである。

神西清「チェーホフの短篇に就いて」

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