2010-05-25

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誰かマッチをつけて煙草を吸いはじめた。短い火あかりに二、三人の顔が浮かび上った。落ち窪んだ眼窩、こけた頬などが仄赤く、また濃い陰翳を作って、ちょっとバグダッドの盗賊の集会のようだった。遠いところでぽっちりと煙草の赤い火を見ていると、闇黒の宇宙に燃えている太陽を冥王星から望んでいるように思われる。
「・・・こうまでして旅をしなけりゃならないんだからなあ」
「なあに、人間の一生なんてこんなもんさ。誰だって、自分勝手で、またしかたなしに、こんな臭い暗い箱に乗りこんで、死ぬまで走ってゆくんだよ」
ぼそぼそと誰か話している。まるで『どん底』のルカ老人のせりふでもきいているようである。
しかし、たしかに臭い。体臭と、汗の匂いと、煙草の煙と、汽車の煤煙と、鉄と鼠と塵と、そして屁の匂い。・・・炭酸ガスが濃く沈澱して、息苦しくなって来た。
午前三時十五分京都着、やっと“ワム8609”から解放されて、冷たい朝の空気をぱくぱくと吸いこむ。
(s20.9.3)

山田風太郎「戦中派不戦日記」

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