男の純潔に関心を持つのも、堕罪へ誘うことができるという喜びのためで、しかも彼女ら自身がこの行為を罪と考えていないことは明らかだから、その喜びは男に罪を預けた喜びに他ならず、それは又、彼女らが別のところにもともと罪の意識をじっと抱きかかえて育てていたということを意味する。ばかに陽気なタイプもいれば、愁いを帯びたタイプもあって、一律ではないが、罪の卵を体のどこかに温めている牝雞(めんどり)という感じがする。そしてその卵を孵すことよりも、若い相手の額にぶつけて割ることばかり夢みているのである。
三島由紀夫「豊饒の海・天人五衰」
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