2010-10-27

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私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤独の椅子を探して、都会の街々を放浪して来た。そして最後に、自分の求めてゐる自由の時間!昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだった。

ああ神よ!もう取返す術もない。私は一切を失ひ尽した。けれどもただ、ああ何という楽しさだらう。私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に有ることを信じたいのだ。
神よ!それを信ぜしめよ。私の空洞(うつろ)な最後の日に。
今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかった。私は喪心者のように空を見ながら、自分の幸福に満足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麦酒(ビール)を飲んでる。虚無よ!雲よ!人生よ。

「萩原朔太郎詩集」河上徹太郎編

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