けれども、父には聞こえない。父は、じっと人波を見つめ、行きかうひとびとをひとりひとり見送っている。・・・・・・その目つきから、ぼくは父が通行人に何か話しかけようとしているのがわかる。『どうぞ、おめぐみを』というつらい言葉は、重い分銅のように、父のふるえるくちびるにひっかかって、どうしてもとびださない。一度など、父は、通行人のひとりを追って一足ふみだし、その人の袖にさわりさえした。ところが、その人がふり向くと、父は『失礼しました』とひとこと言って、へどもどしながらあとずさりした。
(「かき」)
チェーホフ「カシタンカ・ねむい 他七篇」
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