衰えることが病であれば、衰えることの根本原因である肉体こそ病だった。肉髄の本質は滅びに在り、肉体が時間の中に置かれていることは、衰亡の証明、滅びの証明に使われていることに他ならなかった。
人はどうして老い衰えてからはじめてそのことを覚るのであろう。肉体の短い真昼に、耳もとをすぎる蜂の唸りのように、そのことをよしほのかながら心に聴いても、なぜ忽ち忘れてしまうのであろう。たとえば、若い健やかな運動選手が、運動のあとのシャワーの爽やかさに恍惚として、自分のかがやく皮膚の上を、霰のようにたばしる水滴を眺めているとき、その生命の汪溢(おういつ)自体が、烈しい過酷な病であり、琥珀いろの闇の塊りだとなぜ感じないのであろう。
三島由紀夫「豊饒の海・天人五衰」
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