もし本多の中の一個の元素が、宇宙の果ての一個の元素と等質のものであったとしたら、一旦個性を失ったのちは、わざわざ空間と時間をくぐって交換の手続を踏むにも及ばない。それはここにあるのと、かしこにあるのと、全く同じことを意味するからである。来世の本多は、宇宙の別の極にある本多であっても、何ら妨げがない。糸を切って一旦卓上に散らばった夥しい多彩なビーズを、又別の順序で糸につなぐときに、もし卓の下へ落ちたビーズがない限り、卓上のビーズの数は不変であり、そのことは不滅の唯一の定義だった。
我が在ると思うから不滅が生じない、という仏教の論理は、数学的に正確だと本多には今や思われた。我とは、そもそも自分で決めた、従って何ら根拠のない、この南京玉(ビーズ)の糸つなぎの配列の順序だったのである。・・・・・・これらの思考と、本多の肉体のきわめておもむろな衰亡とは、車の両輪のように符号していたので、そう云ってよければ、むしろ快いほどだった。
三島由紀夫「豊饒の海・天人五衰」
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