2012-02-28

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弘法大師は、仏僧中、最高の聖で、真言宗――晃(あきら)もこの宗派である――の開祖、しかも日本の人びとに平仮名とよばれる書体と、いろは文字を書くことを、最初に教えた人である。弘法大師自身、きわめてすぐれた文章家であり、また、書家としても天才的な能筆で知られた。
そして、『弘法大師一代記』という本にのっている話によれば、彼が中国にいたころ、帝の宮殿のある部屋の名が、古くなってだんだん薄れてきたので、帝は彼を召して、新たに名を書くように命じた。そこで、弘法大師は、右手に筆を一本、右足の指のあいだにも一本、それから口にも一本くわえた。五本の筆を、このように保ちながら、壁に文字を書いた。その文字は――川の流れに立つさざなみのようになめらかで――かつて中国でも見られぬほどの美しさであった。弘法大師はそれから、一本の筆をとって、遠くから壁へ墨汁をはねとばした。すると墨汁は、落ちるにつれて、美しい文字になった。そこで帝は、弘法大師に五筆和尚の名を授けられた。
(「弘法大師の書」)

『小泉八雲集』上田和夫訳

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